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暗殺者の肖像−闇の誘惑− |
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暗殺者の肖像 ― 闇の誘惑
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ささやかな幸福が、彼の通学路にはあった。 毎朝、校門で行き合う彼女。清楚で17歳らしいみずみずしさをもつ美少女の顔をちらりと見て、その後ろをそっと歩く。それだけが、決して恵まれた境遇にあるとはいえない日々を送る彼に唯一許された、小さな喜びだった。 兄とふたりで学校までの遠い道のりを歩くのも、クラスが違う美少女とほんの一瞬だけ顔を合わせられる楽しみがあるから、耐えられる。ほんとうに、ただ顔を見るだけでいい。それ以上は何も望まない。彼は、自分がとうてい彼女とはつりあわないことを承知していた。 ごく標準な家庭でふつうの生活をしているであろう彼女に対して、幼い頃から兄ともども親戚中をたらいまわしにされ、家庭の味も知らず、いまだに遠戚の家で肩身の狭い思いをしながら息をひそめてひっそり生活している自分。食べ盛りの年齢になっても、遠慮して貧しい食事に甘んじ、もちろん自由にできる小遣いもろくになく、服も従兄弟たちの古びたお下がりで間に合わせなければならない。 そんな惨めな自分が、はつらつとした幸せな少女に、なにを望めるというのだろう。 すっかり身についた諦めが、彼に「あの子の顔を見られるだけで嬉しい」という満足のしかたを教えたのだった。 放課後。 彼は学校の正面玄関で兄を待っていた。双子の兄とはクラスが違うため、一緒に帰るにはどこかで待ち合わせる必要がある。ふたりはとくに申し合わせるでもなく、玄関前で落ち合うようになっていた。 たいていは、ホームルームが終わってまもなく、兄が姿を見せるか、または彼が行くと兄が待っているのだが、たまに掃除当番などのせいで、待つか待たされるかすることがある。 今日は、どうやら兄が掃除当番にあたっているらしい。すでに15分ほど待っているが、まだ足音も聞こえてこない。 コンクリートの柱にもたれかかって、彼はぼんやりと暇を持て余していた。 このわずかな退屈の時間が、彼に劇的すぎる人生の変転を呼ぶことになった。 「よぉ、ジローちゃん」 不吉な声が、背後からかけられた。彼はぎくりとして痩せた肩をすぼめた。 振り向くまでもなかった。彼のまわりには、すでに５人の男子生徒が群がっており、周囲をとりかこまれてしまっていた。 同じクラスの、札付きどもだった。 彼はジローという名前ではない。本名はちゃんとある。だが、彼ら札付きどもは彼を本名で呼んことはかつてなく、勝手につけた「ジローちゃん」というあだ名でばかり呼んでいる。 むろん、親愛をこめているのではない。肉付きが薄く、体もあまり強いとは言えず、喧嘩を嫌って殴られても殴り返せない気弱な彼を、蔑みきっているのだ。 とくに、札付きのボス格にあるひときわ大柄でいかにも凶暴そうな面構えの男は、理由もなく彼を殴りつけたり背中を蹴飛ばして転ばせたり、寒い冬の日に頭から冷水を浴びせたり、とやりたい放題している。それに対して、彼は一度もやり返したことはなく、苦情すら言ったことがない。ただ歯を食いしばり、何をされてもそれが終わるまで黙って耐えているだけだ。 そのせいで、ボスは彼をなめきっていた。 「暇そうだなァ。退屈なのか？ 遊んでやろうか？」 「……暇じゃない。兄さんを待ってるんだ」 やっと、それだけ言った。とたんに、ボスは爆笑した。取り巻きもそれに倣う。 「へえええ。おにーちゃまを待ってるんでちゅかー」 ばかにしきった物言い。 「おまえ、年いくつだ。高二にもなって、まだ兄さん兄さん言ってるのかよ。ええ？ タローちゃんも世話が焼けるよなぁ。こんな甘ったれの弱虫が尻にくっついて歩いてるんだからよぅ」 兄のことも、彼らは勝手に「タローちゃん」などと嘲笑いつつ呼んでいる。彼にとっては、自分が軽蔑されるよりも辛いことだった。が、やはり言い返せない。沈黙して下を向くしかできない。 そんな彼に、加虐への欲望を刺激されたのだろうか。ボスは思いきり嫌な笑いを口元に貼りつかせ、ごつい手を彼の襟元へ伸ばした。 有無を言わせず、彼をつるし上げると、ボスは 「ちょいとツラ貸せや。おまえに言っておきたいことがあるんだよ」 どすの効いた声で言った。ひっ、と彼は小さく悲鳴をあげた。 周囲には誰もいないわけではない。生徒たちが何人か行き交っている。だが、誰も救いの手を差し伸べてはくれない。同情とも憐憫ともつかぬ視線を送ってくる者はいるが、みな我関せずの体で制止に入ろうとはせず、そのまま行ってしまう。 もしいるとしたら、それは同い年の兄だけだろう。だが、その兄はまだ来ない。もっとも、来たところで彼とさして体格に違いはなく、べつに喧嘩が強いわけでもない兄には、少々荷がかちすぎる相手だが。 「やめてくれよ……俺、兄さんを待ってるんだ。話なら明日聞くから。勘弁してくれよ」 「うるせえな。ごちゃごちゃ言ってねえで、とっとと来やがれ」 彼は、強引にひきずって行かれた。 校舎から少し離れた体育館の裏手は、札付きどもの溜まり場だった。同時に、彼にとっては理不尽きわまりない暴力を受ける舞台でもあった。 誰も来ないこの場所に連れこまれれば、ほとんどの場合、彼ら５人に取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受ける。いまも、いきなり腹を蹴り上げられ、地面に転がった。 立つ暇など与えられるはずもなかった。問答無用の袋叩きに遭い、彼は顔といわず体といわず、あらゆる場所を蹴られ、踏みにじられ、痛めつけられた。 「もう……もう、やめてくれぇ！ 許してくれよぉッ」 息も絶え絶えな悲鳴は、だが激しい暴行をよけい激しくさせるだけで、なんの役にもたたない。鼻血と口からの出血で、彼の顎から下は鮮紅色に染まった。 もう、痛みすら麻痺しかけた頃、ようやくボスが「やめろ」と札付きどもにありがたい声をかけた。 彼は解放されてぐったりと地面に横たわったが、しかしそのまま休むことまでは許されなかった。髪の毛をつかまれて、ひきずり起こされたのだ。 「あ――ああ……あう」 「なんだよ、おまえ。泣いてんじゃねえか。ったく情けねえやろうだぜ。 こんな弱っちいくせして、いっちょまえに亜由美に惚れてんじゃねえよ」 「……！？」 「おまえよぉ。毎朝毎朝、亜由美の後ろをつけてるんだってな。つきまとわれて気持ち悪いって、亜由美は嫌がってんだぜ。あいつ、俺に相談してきたんだよ。おまえを何とかできねえかってよ」 体への暴行以上に、彼には衝撃だった。 いったいいつ、あの彼女につきまとったというのだろう。同じ学校へ通っているのだから、校門で行き会うのはあたりまえではないか。後ろを歩いているといっても、密着しているわけではない。分をわきまえて、数メートルも距離をとっている。だいたい、兄が一緒ではないか。 それが、彼女にはつきまといだというのか。迷惑しているというのか。 ぼう然となった彼の腹に、また鈍い痛みがはしった。ボスの拳がしたたかにめりこんだのだ。 ぐあっ、と声をあげて、彼はすとんとしりもちをついた。胃液がこみあがってきて、たまらずにその場で吐く。汚ねえ、と罵声がとんでくる。 そのときだった。 「何やってるんだ、おまえらっ！」 怒りをはらんだ声とともに、足音が駆けつけてきた。彼に良く似た声――兄の声だった。見かねた誰かが、兄にこのことを教えたのだろうか。 「兄さん……」 「おーおー、タローちゃんのお出ましかよ」 「よかったな、ジローちゃん。お兄ちゃんが助けに来てくれたぜぇ。ま、俺たちにとっちゃあ、おもちゃが一個増えたようなもんだけどな」 げらげら笑う声が、彼の頭上に降り落ちてきた。同時に、兄が何事か叫ぶ声が聞こえた。 弟に乱暴するな、と怒鳴る声。そして、がつんという嫌な音。 たちまち、新たな暴行の気配がたった。殴られた胃の痛みに耐えて顔をあげると、背後からふたりに組みつかれ動きを封じられた兄が、いいように殴られている光景を目の当たりにした。 「兄さんっ！ 兄さんッ」 「がたがたうるせえよ。いくじなしは黙ってろ」 また、顎を蹴り上げられた。血の味が再び口中に広がる。 何もできない彼の目前で、兄もまた激しい暴行を加えられ、血まみれになっていった。 兄もまもなく力を失ったらしい。頭がだらりと垂れ下がり、口か鼻からか、それとも両方か。血がぼたぼたと流れ始めた。 「ああ――兄さん……」 「ケッ。兄弟揃ってだらしねえなあ」 「そう言うな。すくなくとも、タローちゃんはりっぱだぜ。ぼこぼこにされるってわかってても、弟を助けに来るだけの根性はあらぁな。 ジローちゃんはさっぱりだけどよ」 「ほんと、いい兄貴もって幸せだな。え？ ジローちゃん。 これに懲りたら、二度と亜由美に近づくんじゃねえぜ」 警告をとばすと、ボスは仲間へ合図を送った。気絶しているのか、動こうとしない兄が荒っぽく解放されて、すぐ側に倒れこんだ。 ぞろぞろと、脅威がその場を離れていく。後には、ぼろぼろになった兄弟だけが残った。 「兄さん……兄さん」 兄に這いよって、彼は声をかけた。固く目を閉じていた兄が、うっすらとまぶたを開いた。 「……だいじょうぶか……？」 「兄さんこそ。俺はこんなの慣れてるからいいけど」 「よくはないだろう。ひどい顔してるぞ」 ぜいぜいと激しく息をしながら、それでも兄は彼を気遣っていた。 「亜由美って、あの子だろ。おまえ、何にもしてないのにな」 「……もういい」 ふらふらと、彼は立ちあがった。まだ動けない兄を、精一杯の力を振り絞って助け起こす。 「帰ろう、兄さん」 「……ああ」 ふたりは、肩を貸し合ってよろめきながら、凄惨な体育館の裏を後にした。 翌日、彼は兄と一緒に、いつもより早く家を出た。 望まない喧嘩にまきこまれてケガをした兄弟に、遠戚たちは冷淡だった。とくに手当てするわけでもなく、汚れた服すら取り替えようとはしなかった。冷ややかな目を向けるだけで、いたわりの声は誰ひとりかけてくれない。厄介者が厄介なことをした、としか思っていないのだろう。 その気まずさと、体の痛み、くわえて彼女に会いたくない気持ちが、彼を早く目覚めさせたのだ。 本当なら、電車で通ってもよいほどの距離を、体の痛みに耐えながら歩く。もう、今日からは朝のささやかな楽しみもない。小さな憧れを、あのようなかたちで粉砕されてしまった彼にとっては、彼女の顔を見ることすら、もはや苦行でしかなかった。 なんとか、彼女と鉢合わせにならずに済む――はずだった。 だが、こっぴどいダメージを受けた体は、ふだんよりも動かなかった。足いろも鈍っていて、予想以上に時間がかかってしまったのだ。 結局、校門にたどりついたのは、いつもどおりの時間だった。 彼女が姿をあらわした。彼はぎくっとして足を止めた。 その気配が伝わったのか。彼女も足をとめ、まったく不意に彼のほうを振り返った。 そして。 「汚い。あんた、そんなかっこうでよく恥ずかしくもなく私の前に出られるわよね」 錐のように鋭い侮蔑のことばが、彼女のかわいらしい唇をついて出た。彼の心に、致命的な傷を負わせるに充分な惨いことばだった。 声もなく立ちすくむ彼に、少女はさも薄気味悪いものを見た、といった視線をくれて、 「私の周りをうろちょろしないで。目障りなの。嫌なのよ、あんたみたいな男。 前から、私をつけてたでしょ。すごく迷惑してたんだから。ほんと、二度とこういうのしないでよね。今度やったら、こんなものじゃ済まないわよ」 きついとどめを刺して、やっと胸がすいたといわんばかりに鼻で笑うと、彼女はまた校門に向かって歩き出した。 その後姿を、彼は黙って見送った。 兄が、肩を叩いた。 「気にするなよ。自意識過剰だぜ、あのばか女」 「……うるさい」 彼は、低くうめいた。腹の底からしぼりだした、凄まじい憎しみをはらんだ声だった。 それは、だが兄に向けたものではなかった。彼は明らかに、去っていく美少女の背後へ投げつけたのだ。誰でも慄然とせずにはいられない、殺気すれすれの憎悪と嫌悪をこめた目つきもろとも。 「うるさい女だ。俺は、おまえみたいな女がいちばん嫌いなんだ」 激しく吐き捨てるや、彼は踵を返した。 登校を拒否した彼は、あてもなく街の中をさまよい、やがて公園に落ちついた。 兄も付き合って、いっしょにベンチに腰掛けている。昼過ぎに、一度兄が席をたち、近くの店でパンと牛乳を買ってきたが、それ以外はほとんど腰もあげず、何を話すでもなく、ふたりはひたすらベンチに座って空を見上げていた。 日が暮れて、東から月が顔を出しはじめた頃。ようやく黙りこくっていた彼が口を開いた。 「……力だ。力が欲しい」 「……」 「俺は、力が欲しい。もうこんな生活は嫌だ。誰にも負けない力が欲しいんだ」 「……ああ。俺にも力があればな。あの札付きどもにも、嫌な親戚たちにも、なめられなくて済む」 「どうすればいい。どうすれば、俺たちには力がつくんだ。こんなやせっぽちの体じゃなくて、もっとたくましい丈夫な体を造れるんだ。 誰か教えてくれ。どんなことでもする。悪魔に魂を売ったっていい。俺に力をくれるなら……俺は」 彼の、血を吐くような独白に、答える者はない――かに思われた。 だが、実際は違っていた。 「そんなに力が欲しいのかね」 穏やかな声が、彼の叫びに応じたのだ。 驚いた彼と兄の目前に、いつ近寄ってきたのか、黒いスーツを着た男が立っていた。 男は、いぶかしがる兄弟に、やおらくるみを取り出して見せ、 「君の言う力とは、こういうことかね」 いともあっさりと握りつぶしてのけた。彼は息を呑み、男が豆腐でも握るような気軽さで固いくるみの殻を粉みじんにするさまを凝視した。 男は微笑して、 「もしこれが望みだというなら、私と一緒に来ないか？ 君たちに、素晴らしい力を与えてあげよう。いま見たように、強大なパワーが手に入るぞ。もう誰にも負けない、惨めな思いをすることもない。 悪魔に魂を売るくらいなら、私に身を預けてくれんかな」 夜の闇が迫る黄昏時に、突然訪れた機会。 忍び寄ってきた闇からの誘惑は、彼と兄にとってあまりに魅力的で、抗えぬ不思議な魔力を秘めているかのようだった。 彼と兄は顔を見合わせ、同時にうなずくと、立ちあがった。 力を得る代償として、何が犠牲になるのか。血の絆で結ばれていると信じている彼ら双子の兄弟には、まだ知る由もない。 ある日を境に姿を消した兄弟の消息を知る者は、街には誰もいなかった。
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